家族葬で見送るという別れ方

かわいがってくれた叔母が93歳で天寿をまっとうした。
九州から帰ったばかりだけど、これは見送りに行かないと、と思った。
だけど叔母の息子、娘、孫、ひ孫たちだけで家族で送りたいのだと聞いた。
もちろん、行けば拒まれることはないと思う。
が、そうだな、家族だけでしみじみ送りたいだろうな、と考え直した。

式典にすると違った空気が入り込む。

息子、娘たちは中年、老年で迎えた肉親の死に対して、しみじみと亡くなった肉親に語りかけたり、顔をなでたりしたいだろう。

そこに行けば、親戚といえども、邪魔になることもある。

人が病気になったときけば健康な身の立場でわーわーと勢いよく息を弾ませて見舞いに行き、書留で見舞い金を送り、花を、菓子を届けたりすることと同じように、人の死に際して、なくなった人の肉親の気持ちをおもんぱかることなく、式服だ、香典だ、式だ、と大騒ぎして駆けつけるのはどうか。

人の見送り方には「形式」ではない送り方があるはずだ。

押して式に出かけた身内もいるが私は思いとどまって遠いところから手をあわせることにした。

かわいがってくれた叔母さんありがとう。安らかに。

ところで。

人は必ず自分のしたことが後でいいことも悪いことも跳ね返ってくるものだなあと思う。
走馬灯のように浮かぶあの人この人、そして自分はどんな状態で死ぬのだろうか。

子を持たなかった人は私も含め、家族葬は難しい。
すると友達葬?
知り合い葬?
遠縁葬?

式典にこだわらず自分の最後の日を静かに考えると、この世でムタイなことをしているゴウツク爺さん、ゴウツク婆さんも考えが変わるかもしれない。

子供、孫、ひ孫にしみじみ家族葬で送られた豊かな叔母の人生に生き方を教えられた気がした。

静かに人を遠いところから見送れるようになった私のことを天国の叔母は微笑んで見てくれているかな。

by yoshi-aki2006 | 2010-10-07 16:38 | シンキング | Comments(0)  

<< 不動産投信、レアアース関連~東... デフレからインフレへ~基調転換 >>