人をねぎらう言葉

「相手を思いやりなさい」ということは聞いて育ちましたが、心で思いやるばかりでなく言葉でもいうべきだな、と思います。

踊りの友達でお庭にミカンの木があり(広~い!!)、季節になるともいでクラスの人に持ってきてくれる人がいます。

「うわー、ありがとう」とお礼をいい、受け取って帰る道すがら、「えっ、彼女は家からもいで電車に乗って都心の会社に行き、そして、その帰り道に私たちにミカンをわざわざ持ってきてくれたんだよね」と思いました(気ずくのが遅い!)

途中途中の友の情景が浮かんできます。

前の晩からミカンを摘んで紙袋に仕分けし、朝、会社に出勤するまでに彼女の手に食い込んだ重い紙袋。満員電車にゆられ、会社のロッカーに。
そして、夕方、教室で先生や私たちに。
「ありがとう」とお礼を言うだけでは感謝は伝えきれないなあ、と感じ、
「朝からずっとミカンを持ってここまで来られたんだよね。重たいのに、ホント、ありがとうね。電車の中で気が気じゃなかったでしょう」と次に会った時に言うと、普段はクールで無口な彼女が結構、話をして笑顔もあったので、やっぱりねぎらいの言葉って大切だな、と思ったのでした。

しかしながら、老親Bは「人には思いやりを」と言って私を育てたはずなのに、この人の人を気使う語彙の少ないこと少ないこと。
今は施設に入っているのですが、食事がまずいとのことでいろんな品を送ってくれとよく頼まれるんですよね。

送る品は多岐にわたり、私はさながらネットスーパー配送係みたいな状態におかれています。
その品はデパート食品売り場に、ある品はスーパーのあの棚に、という具合でバタバタしている中、「あれも追加」「これも詰めて」と指示がバラバラ来て、毎週、買いそろえるだけでへとへとです。

自分が買う品ならすぐに探し出せますが、思いもよらない品の数々に面食らい、売り場をうろつく時間も長くなります。

ある時は「ゆで卵が食べたい」といい、のどを詰まらせては一大事と思って、温泉卵も入れて送ったら、次回はダブル注文となり、家で2ケースほどのゆで卵を作ったり、炊飯器のメニューで温泉卵を作ったりし、冷ましてやっと送りました。ゆうパックにパッキングするのも一苦労で、送りだすとどーっと疲れます。

で、気に入ったかな、と気にしていると、「届いた。ありがとう」だけ。
ねぎらう言葉がないんですよね。玉子を大量に買ってきて、ゆで時間に気を付けてゆでて、冷まして、パッキングし、郵便局に出すだけで半日はかかったというのに。

「こんなにたくさんのゆで卵を作ってくれて、さぞかし大変だったでしょう」の一言があればどんなに良かったかな、とがっくりです。
でも、思い返せば、老親Bは昔から「人をねぎらう言葉」がない人でした。

頭の回路が「人をねぎらう」という道を通らず、即物的なんだろうなと思います。
ゆで卵が来た! よかった!
で終わり。
いわゆる、ジコチュー。
「二度とやってやるもんか」と思われるリスクに気がつかない。バカってことなんだなと。
親というヒエラルキーのトップにいることの利益を行使し続ける点をどう解釈するかですが、悪人、毒親というほど濃いい密な質感はなく、「親なんだから子供にやってもらえるはず」という単純ヒステリー性バカの壁ってところかなと思います。

でも、そういう頭の回路の人は老親Bに限らず、社会にはいます。実際に何人も観ました。そして、つどつど
何てド厚かましい人なんだろう、と呆れ、憎み、嫌悪し、ばかばかしいと思い、離れるに越したことはないと思いました。

会社などのヒエラルキー上層部に、言葉巧みに人をコントロールし、最終的には「自分だけ」の悪魔がいますから、若者はよく相手を吟味したほうがいいですね。
そして掟組織のその道の人たちも使い走りに利用する人をつかむために気使う言葉を巧みに使用しますから用心が必要です。

が、社長を務めているような立場の人は人をねぎらう言葉をよく口にされますね。
だから社長が務まるんですね。
出世している人は人をねぎらう言葉をたくさん持って、実際に使われています。

そして、それがよい使われ方をしている場合、その会社、その社長は持続可能性が高く、「今だけ欲だけ自分だけ」の場合は持続可能性がないといえます。


何も特別な言葉でなくても

ありがとう、あなたのおかげで。
よくやってくれて助かっています。

それだけでだいぶん違いますよね。
いわれる側はねぎらう言葉を聞いて努力が報われたと嬉しい気持ちになります。

アカデミー賞などの授賞式などでも受賞した役者さんらは「監督、スタッフの皆さんありがとう」と名前を挙げてねぎらいますよね。
ねぎらわれた人はきっとすごくうれしいと思います。「あ、この役者は自分の成功は他者の力の集結であることをわかっているんだ」と感じて、「よし、こいつとなら次回もやれる。力を合わせていい作品にしていこう」という気持ちになるでしょうね。


言われる側は過剰に「うれしい気持ち」をくすぐられる場合は悪魔がささやいている場合もあることを忘れずに、

人の喜ぶ姿が自分がうれしい。そんな自分を自分でねぎらう。
そして、愛すべき人をねぎらう言葉を適切に使えれば人生は明るくなる。

ということで、日々日々、人をねぎらいつつ、周囲を明るく照らしていきたいですね♪



by yoshi-aki2006 | 2022-03-01 03:56 | 感謝 | Comments(0)  

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