哲学者でリアリスト

あまりに不細工ゆえ、誰からも餌をもらえない野良のサリー。
不細工、ぶ・さ・い・く・・・・と言っているうちに、ぶ「サ」いく、「サリー」と名前がついた猫のサリー。

「今日は絶対居るなー」との予感どおり、昨夜は私がいつも通る道の塀にしょぼくれて座っていた。
私を見つけると「やっ!  来た来た来た~餌くれー」と全身で訴えかける。

いつのまにか真っ黒けののそーっとした猫も私を待つようになった。
このコはひっそり黒いということで「ノアール」転じて「ノアちゃん」と命名した。

その日、私は近所のスーパーでりんごを4つ買った。4つは紙のお皿に乗っていた。
売り場で紙の皿ごとレジ袋に。

そして、皿にビニールをかぶせて臨時使いにし、そこに購入した牛乳をとくとくとついで、塀に置き、サリーとノアちゃんに話しかける。
「二匹でしばらく、このミルクを飲んでひもじいのを我慢してるんだよ。私はりんごを家に置いてから、餌をもってまた戻ってくるからね」と言い聞かせていると中国からの観光客のカップルが「わー、猫だ」みたいな中国語をしゃべって「かわいー」(たぶん)とかいって二匹を見ていた。

家に戻ると冷蔵庫の中のナマリ節と猫用餌のかんずめの半部分を解凍する(いっぺんにあげるともどすことがあるので)

で、また、塀の場所に戻ると二匹が真剣に地べたを見ていた。
目線を追うと、さっきの臨時のお皿が空っぽになって地べたに落ちていた。そのときの猫会話はたぶんこんな感じだ。
サリー「あーあ、地べたに落ちちゃった・・・」
ノア「どうする? ミルクは飲み干したけどナイロン袋にまだ数滴のミルクが残っているよね」
サリー「でも、塀の下に降りるのはリスクだよ。人間がのそのそ歩いてくるから、降りて下でお皿のミルクを落ち着いて舐めても居られない・・・・」
ノア「でも、もったいないよ。ミルクなんて何ヶ月ぶりだろう? お母さんのおっぱい以来だ」
サリー「どうしよっか」

二匹はそんな会話をしていそうな感じでジーと地べたに落ちた紙の皿を見ていた。
そこにナマリ節と猫用かんずめの半分を持って現れた私。
「おい、お前たち、ほら、主食だよ」

サリーは涙を流しながらゆっくり、ナマリ節をかじり始める。
餌にありついたことでホッとしてやっぱり我知らず涙腺が緩むんだろう。

ノアは「僕も欲しいよー」と首を突き出すが、そこは新参者の遠慮からか、ナマリ節を横から掠め取ることができないでいる。餌場のおきてがあるんだなあ。きっと。

猫道はなかなか立派だ。

中小企業のオヤジみたいな苦労がにじみ出てしまっている彼らを見ながら、実家の生みの親がミスコン優勝のブランド犬ベルを思い出す。
どっちがかわいいか?
ベルには悪いけど、私はどうにもしょうがない世界に生きる野良猫のほうが好き。

ベルはかまってもらって当たり前。食べ物がおいしくて当たり前という文脈で生きているお嬢様。
その点、サリーとノアは数滴のミルクを前に哲学的だ。

どうにもこの小さな二匹の苦労人(猫)であり、ゆえに哲学的でかつリアリストな彼らから目が離せない。

by yoshi-aki2006 | 2009-08-25 15:29 | 日々雑感 | Comments(0)  

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