寄せ集めな話のその向こう

耳が良くなったな~と思う。
それが「年の功」ってやつかも。

以前は自分が積み上げてきた経験から自分の強い思いがまず母体にあって、それに照らして、そぐう人を「好き」と思い、そぐわない人を「嫌い」と思った。

「好き」か「嫌いか」の二律が強かった。
だから、「好き」と思う人がそぐわないことをしでかすと「許せない」と思ったし、嫌いな人が唾棄なことをすると、罵りたいような強い感情に見舞われた。

しかし、多少とも視野が広がったからか、公私で判断して、「この人、自分のことだけで一杯一杯だな」と思ったり、「公益を考えようとしている人だな」と感じたりする。「ああ、この人はこういう思いの人なんかなー」と話を聞くだけで分かることが多くなった。


その公益の実現に自分は協力できるのか、どうか。
それを考えるようになった。

視野が広がり、耳が良くなったことで「毒になる親」に書かれてあったセラピーのように相手に振り回されないで自律で旋律に加わったり離れたりできる。

そのかわり物忘れが激しくなった。
なので、好き嫌いの感情もすぐ忘れる。
つまりは年の功というか、
端からみると丸くなったと見えるかもしれない。

が、忘れない事柄もある。
すぐには反撃しないが、いつか問いたいという思い。
それは忘れない。

殺伐とした私利私欲のせめぎあい、「私えらいのよ」「いや、私こそえらいのよ」の自己顕示欲、その場・支配欲のうごめく世界にいると
心に染み入る植村花菜さんの「トイレの神様」に柔らかい心をとりもどすのだが、ふと「パクリの神様」みたいな人も業界にはいるなーと思う。

一字一句、寄稿した文章そのままに人の話の丸ぱくり。
あっと驚く寄せ集めなぱくりオムニバス。
金儲け、世渡り上手の他者加工型ビジネスモデル。
業界にはそういうことを恥じない人もいる。

どっかで聞いた話だなぁ・・・と聞いていて、「あ、それ私の正月の原稿だわ」と気がついて、びっくりする。
でも、「自分の井戸がなくて気の毒な人だな」と思うようになった。

自分の井戸がなければ常に「目新しい話、受ける話、賢そうに見える話」を探してガソリンを補給しなければならない。
自分が枯れることのない油田であれば、飢えて補給のために走り回らなくて良い。

パクリの神様から教わったこと。

加工型のビジネスモデルより源泉かけ流しのビジネスモデル。
寄せ集めな話より豊かな湯量を誇れる話。
人は案外、馬鹿じゃないってことを私は信じる。

by yoshi-aki2006 | 2010-04-14 00:50 | ビジネス | Comments(4)  

Commented by としぼう at 2010-04-14 12:14 x
パクる人々は自信もフライドもないんですよ。
そういう輩に意識を向けること自体が時間のロスです。
盗みたいなら盗めばいい。
見ている人は見ているし、気付く人は気付いています。
たとえなにを言わなくとも。
Commented by yoshi-aki2006 at 2010-04-14 21:31
としぼうさま

そうですね。
あきれながらも、どこか盗られたことを恨む気持ちがあります。
としぼうさんのような達観の境地にはなかなか到達できずに苦しみます。
Commented by としぼう at 2010-04-15 04:53 x
いえ、達観などできませんよ、絶対に。

私の場合、どちらかというと「憐れむ」感じかと。
ああ、この人は能力がないので「かわいそう」と。


言葉づかいひとつにしても真似っこは分かりますって。
本人とギャップがあるので気付きますよ、鈍い人でなければ。

自分は決してそうはなるまじ、と反面教師にするしか有効活用の道はないですねぇ。。。


Commented by yoshi-aki2006 at 2010-04-16 01:01
としぼうさま

ま、書いてすっとしたことで忘れることにしましょうか(^^)
ところでパクリの神様をどうやって見抜くかの耳は良くなりました。
脈絡なく、数字が出てきたり、突然予測話に結びついたり。
考えて導き出す人とまったく話の流れが違うわけです。

人の話はよく聞くべしということで耳が二つ付いているわけですね。
もっとも口が二つついているほどパクリの神様は話されました。
沈黙は金。
そうも言いますので、もう黙ります、はい(笑)

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