何のために生きるんだろー?~人生は自分が何者かを知るための旅
2012年 07月 18日
何で生きてるんだろー?
それがわからなくなることがあります。
たくさんの知り合い、親せき、私を知っていてくれた人たちが次第次第に現役を退き、ある人はもっと遠い世界にまで旅立ってしまい、ふと、見回すと、私はだれ、ここはどこ、何のために、何をしに、私は生きてるんだろー? それがわからなくなって何度も自分に問いかけていることがあります。
90歳前後から60歳台の人たちから見れば私はまだまだ子供であり、妹であり、後輩。
でも20歳代から30歳代の人たちから見ると、年上であり、親とも近く、おじさん、おばさんの世界の人。ま、どっちかっていうとうっとおしい世代。
居場所がない感じがする。
雑誌の閉刊、核となっていた人の死亡、コミュニティの喪失など、失うことが多くなるに従い次第次第に孤独な気持ちになっていきます。
向こう側の人たちと会いたいなーとも思います。あの人たちがいた世界に行きたいと思うわけです。
何で生きてるんだろー?
不思議な気がし、わからなくなったりする。
でも、問い続けて最近、自分を支えてくれる言葉にたどり着きました。
そうだ、一人一人の人間は、「自分がだれかを知るために生きているんだ」ということです。
たとえば親には子供を産んだだけの親もいれば、産んだ子供を虐める親もいる、子供に尊敬され、愛される親になろうと努力する親もいます。
同級生を殴ったり、お金を巻き上げる子もいれば、「殴られている子がいる」と担任に通報した子供もいます。虐めた子供、いじめられた子供、通報した子供。
金が儲かるためなら何でもする人間もいれば、貧しくても人のモノを盗まない人間もいる。
人はいろんな形で生まれてきます。美しい人もいればそうでない人もいます。
美しさを武器に使う人もいれば使わない人もいます。
武器を手に入れるや使う人もいれば目の前に武器があっても使わない人もいます。
この世での選択はすべては「お前は何者か?」を問うことばかり。
だから、小さな力でもいい。自分が何者かを知るための行動をすること。
できないことをできない、とあきらめたとしたら、できないことを受け入れた人間なのであり、
チャレンジし続ける人生を選択したとしたら、そういう人間なのだと知ることができます。
そう思えば、「こういうことをしたけれど思ったような結果が出なかった」ようなときでも落ち込まないで済みます。
自分はまた、挑戦し続ける人間なのかもしれないし、潔くあきらめる人間なのかもしれない。
正しい、正しくない、できる、できないを基準にしないで、自分は何者なのかを知ろうとする人生を生きるのだと思えば、静かな闘志というか力が湧いてきます。
そう思えたことがよかったです。
by yoshi-aki2006 | 2012-07-18 22:59 | 生きる力 | Comments(1)