165回直木賞受賞のテスカトリポカ 佐藤究さん作を読了。
この作品は受賞か見送りかで大激論になったそうです。
そりぁ、そうです。
この作品の受賞はものすごく重い。
この作品に直木賞を与える、と決断した審査会は直木賞を今までと違う次元にしてしまったと思います。
いや、私が浅学のために直木賞のこれまでを知らないだけかもしれないけれど。
私たちは今より一ミリでも社会をよくしよう、自分も一ミリでも昨日より今日、社会にとっていいことをしようと願って生きているはずだ。それが自分の人生にとってもいいことであり、救われることであり、社会にとっても励みになることなんだ。少なくとも私はそう念じて生きています。社会の中に生きる一人の人間としてみんなが糞まみれでそのままにすれば自分も糞まみれの中で呼吸することになる。
だから、少なくとも自分の糞はきれいにして、周りの人もそれを守ってきれいな空気の中で、お互いにいい空気が吸えるようにできたね、とうなずき合う。それがこの社会にいる間の最低限の務めだと思う。
この作品の登場人物にも一ミリでも人のためにいいことをしようとする人物は描かれる。それが自身の生にもいいことだと静かな確信を体の芯から呼び覚まされて。
登場するのは物理的に力を有する、「ろくでなし」たち。
ここまでの「ろくでなし」はまず、いないだろう、いてほしくない、と願わずにはいられない人物がこれでもかこれでもかとろくでもないことをし続ける。
まず、その「ろくでなし」ぶりがむなしい。哀しい。そして、ここまでの描写が必要なのか、冒涜ではないのかと読書中、何度も深い哀しみに見舞われた。
いい加減にせんかい、お前(作家さん)よう、と思った。
読書中に大阪摂津市の三歳児虐待事件の犯人の男の再逮捕とその母親の逮捕が報じられ、彼らのろくでなしぶりに「ああ、こういうろくでなしがいるのだ。なんと嘆かわしいことなんだ。ここまで堕ちている図体が大きいだけの幼稚なやつらが小さい子供を無力な子供をてごめにしやがって」と同じような哀しみを感じた。
そして、「こういう男、女はどういう環境から生まれてくるのか。その親、その祖父母はどういう輩なのか。彼らの生きた昭和、平成に彼らはどういう若者で何をしていたんだろう」とも思った。
私が経済で見てきた構図。ここまで堕ちた人間を再生産してきた日本という国の空疎さ。空を仰ぎたくなる日本の今そこにある危機。
折からの衆議院選挙の候補者たちが発する言葉から感じる日本の戦後の空疎さ。
祈りも持たぬ、今だけ快だけ自分だけ。昨日のご結婚会見ですらその匂いを感じたばかりで、核心のない民の群れにあって自分の願っている社会をよくしたいという思いは一滴の水のごとくにむなしいのか。
このテスカトリポカに登場する「ろくでなし」にも親がいて、祖父母がいて、どこでここまでのことになるんだろうと現在の日本と重ね合わせて考えさせられた。
しかし、なんだろう。ここまでむごたらしくおぞましく書く必要があるのだろうか。その思いがあります。
残酷描写がこれでもかこれでもかと繰り出され、あまりにそれが情けなくて、泣きたくなりました。同じ人間として、ここまではないよ、と。
なんなんだ、人間の生に対するここまでの侮蔑的な描写は。冒涜ではないかと。
作家さんの残酷描写に快楽志向の匂いが立ち上り、少年Aに通じるものを感じもした。
こんな描写がある作品を本にして、商品として世に出して、人目にさらして「賞」という価値、お墨付きまで与えてしまう世の中って何だろう…。その意味で「にんげん」を「いまそこにある社会」をおもった。
版元のKADOKAWAは上場企業でもあり、企業の社会的責任が持続可能性として機関投資家などから強く求められる中、思い切ってこうした本を社会に提供したと思う。
欧米の機関投資家からは何も言われないか、商品として販売するからには役員会などで議論にならなかったのだろうか。
そういうことも気になる。
SDGSの組み入れ銘柄にするには議論が生じても不思議ではない。
私の見ていない、見えていないものがあるのかしら、ね。
様々な葛藤の果て、「詩」としてこの作品を読んだことにしたいと思った。しかし、その意味では「詩」章に残酷描写を上回る質を求めたいと思った。
直木賞はおそらく、そういう願いをこの作品に求める意味で与えられたのだろう、そう思って本を閉じた。生きているうちにこの本をもう一度読みたいかと自分に問うて、まずそれはないだろうと思った。
主人公のように一ミリでも魂に、神々のいる世界に届くことを日々、呼吸をするようにやっていく。
それでいい。そしてこの作品にねがわくば「ほら、これはどう」といえるモノを提示できる日があったらなと思います。
ということで、久しぶりに一気に読めた本に感謝です。
さて昨日は編集チームのご都合で公開時間が二時間近く遅れましたがこんなお話しでーす。
ちなみに忘備録として選考委員の皆さんの選評を見てみることにした。
女性委員はほぼ、合格票を投じておられる模様で、読んで納得の選評を出しておられたのは男性陣に多かった。