94歳になる母はいまだに新聞を読むのが何よりの日課。しかも、朝日新聞一筋。
私は仕事柄、一時期あらゆる新聞を購読していた。
結果、家の中が古紙回収の倉庫状態になり、積み上げるうちに猫の爪とぎにもなって、ついには購読紙を減らし、近年ではデジタルに切り替えた。
配達される新聞には「世界の情報が新聞にまとまっている」「いつでも好きな時にぱっと読める」という便利さがある一方、字の書かれた紙をゴミとして捨てるに忍びなく、溜めてしまう悩ましさがある。
ニュースは毎日生まれる。だから、今日の新聞は明日は不要、という考え方もあるかもしれない。
でも「今日のこの報道から何かが生まれていく」「重要な意味を持つことが今は見えていないだけかもしれない」と思うと、読んだ新聞でもしばらくは手元に置きたい。
ちなみに新聞捨てられない症候群は何も私だけでなく、知人の奥さんもそうだと聞いて、「あ、私だけじゃないんだ」と納得したものだ。
そのお宅では「捨ててよ、僕のおうちワークスペースが窮屈だよ」と頼む夫と「いやよ、これは私の宝物なの」と拒否する妻で会話の中身が次第に険悪になってると聞いた。
ちょっとくすっと笑ってしまったエピソードだった。うちでも似たり寄ったりのやり取りがあったからだ。
結局、そんなこんなの果てにうちではデジタルに移行した。そして、もう、前には戻れないと感じる。
新聞には考えさせられる光景を見ることがある。
近所に古紙回収の大きな施設があり、時々、その前を通るのだが、まっさらな新聞の山が大きなカートに積み上げられている。おそらく専売所が仕入れている実際の需要以上の新聞の廃棄が行われているのだと思う。廃棄されたまっさらな新聞を前に、私以外にもう少し年齢の高い婦人も長い時間、立ち尽くしていた。
きっと再生紙としてトイレットペーパーや段ボールの素材になるのだろうとは思うが、なんともいえない気持ちを覚えた。
まず、紙や印刷代が無駄になった痛み。紙や印刷に携わった働く人の仕事がゴミになった悲しみ。次に記事を取材した人、原稿を書き、一生懸命新聞という商品に仕上げてきた人たちの労力がゴミとして処分される無残。そして、新聞というかつては我々の知らないところで起こっていることを伝えてくれていた輝かしい存在がこうして、人に読まれることなくゴミになること。
知り合いに何人かの新聞記者がいたけれど、一人一人の「それまで」と「その後」を想うと、時代はそうして流れていくものながらなんとも寂しい気持ちを覚える。
それはものつくり最盛期の工場の衰退時にも
今の日本の世界的なポジションの後退にも
とめどない円の下落にも
同じように感じる気持ちと似ている。
さて、今、新聞を取っている世帯数はどれくらいか。
日本新聞協会の数字を当たってみよう
ほかのサイトでの日本の世帯数とも照らして
https://chimei.jitenon.jp/jinko/
日本の 総世帯数57,854,887戸(令和3年1月1日時点)とすると
日本新聞協会の数字から推定するに朝夕セットを取っている世帯は8~9世帯に一軒と考えられる。
朝夕刊セット数が多少、化粧している可能性を考えると
実情は10世帯に一軒くらいかもしれない。
朝日新聞の場合
2022年3月期の朝刊の発行部数は455万部とある。
出典
朝日の2011年発行部数は800万部だったというから約10年で半分になったわけだ。
さらにコロナでとどめを刺された。部数激減だけでなく広告出稿の減少も痛手だったろうな。
この三年、非常に厳しかったと思う。
新聞購読をやめる口実に事欠かなかった。コロナまん延で出社しない社員のための新聞の購読をやめたり、ホテル、店舗などで定期購読していた部数も減少した。
さて、新聞購読をむつかしくしている理由はコロナ以外にもいくつかある。
購読者の高齢化にともない、細かな字を読む意欲の減退。
視力の衰えを感じながら、細かな字を追う毎日はつらい。生活の質の低下感と直結する。
では、字が大きくなったらいいのかというと、それだけでは読もうという意欲につながらないと思う。
私の場合、新聞の購読を再開するとしたら、まずは簡潔にいろんなことがわかりたい。
国内外の時事、経済。生活、地域のこと。これが事実ベースで簡潔にまとまっていて、薄く、持ち運びや手元に置くのにちょうどいい大きさであれば購読意欲は湧く。ファイリングに便利であってくれればうれしい。ネットでデータを集めるより、便利ならと思う、
ただし、情報量は絞ってもらいたい。情報量が多すぎると、脳疲労を覚える。
そんなに多くの情報は必要ないのだ。特にネットで集められる情報はいらない。例えば、料理のレシピなどはネットで十分だと思う。
加えて、一般的に賢いと世に認定されているらしい人、同様に偉いだとか物知りだとかの人々のそれぞれの意見を積極的に知りたいわけではない。
彼らは自分でツイッターなり、ブログなりで情報を発信し、興味を覚えた場合はその人の本を読めばいいわけで、新聞で各自の意見をそんなに紹介してもらいたいわけではない。
新聞では記者が事実ベースで何が起こっているか伝えてくれればいい。新聞はその役目をまず果たしてほしいと思う。
多角的な視点での事実が知りたいのであって、「ロシア・プーチン悪者」のようなプロパガンダはできるだけ排除してほしいと思う。「ゼレンスキーとバイデンがウクライナを救済する方法はいくらでもあった」と感じる私には「プーチンが悪い」と言わんばかりの報道には不信感を持つ。
また、最近では岸田氏が菅氏の部屋を訪ねて、15分で出てきた後に、森元首相の東京地検特捜部の三度にわたる任意事情聴取の事実上の報道解禁があったこと、菅氏が沖縄県知事選挙前に安倍元首相の銃撃現場に出向き、手を合わせていることなどを点と線で結ぶと、岸田首相の菅氏訪問は「国葬の説明」関連ではありえないことが手に取るようにわかるのに、「国葬関係の説明助言を求めたものと思われる」といった憶測報道があったりすると、しらけてしまう。
そして、パーク24の役員名にオリンピックの竹田 恆和氏が名前を連ねていることも民間人のほうが先に知っているようなことは新聞の情報の品質にもかかわることだと感じる。
抜かりなく、そういう報道はきちんと網羅されていなければクオリティペーパーとはいえない。
ところで、私が新聞を手にしたときにかならず目を通すのは読者の投稿欄だ。出張し、ホテルで、あるいは駅の売店などで購入する新聞の何が楽しいかというとこの読者欄である。
生活者のそれぞれの生の言葉が「今、生活者の日常に何が起こっているか」を端的に伝えている。
近隣や公共面での悩み、楽しいこと、うれしいこと、悲しいこと。読者欄からは人の営みが手に取るように伝わってくる。
コマーシャルやドラマは「夢=うそごと」であり、「人の暮らしはここにある」と我に返る手がかりになる。
そして、ほっとした気分にもなる。
ニュースで報じられるのは詐欺、事件事故、戦争などの人間不信につながるようなものばかり。
人間はそんなに悪いことばかりするクソではない。
そういう点で新聞は世の中、人の世を明るく照らしているのか?
照らしている、という存在意義が感じられればまた新聞購読を再開してもいいなと思う。
2025年には団塊世代が75歳以上になる。
そのころには90歳代の購読者の存在もますます減少していくだろう。
政府は特殊な仕組みで蜜を吸い続けた一部の民間人、半民間人、政治家たちの影響下、税金を投入してはそうした特別ひな壇にいる人の資産を増やし続ける一方、高齢者の年金を減らし、医療費負担を求め、しかも生活苦に直結するインフレ政策をとっている。
大枚の税金が国民生活をよくする方向に使われることなく、国債発行額だけが膨らみ、もはや円安に頼って景気を起こすしか道がなくなっている。
宗教法人に利用される政治家だらけになってしまったのは、きわどい政治家を見抜けなかった国民のリテラシーの課題といえる。
新聞が国民に購読されるには、政治を国民側に立って質していく姿勢があるかどうかだ。
質すからには「まっとう」な人の生活に新聞の軸足が根を生やしていなければならない。
しかしながら、その軸足が生活者のフィールドからいつしか、ずれてしまったのではないか。
それはあながち、金持ちの子息子女の入社が優先されがちなメディアの問題とは無縁ではないだろう。
金持ちの子息子女の入社が優先されがちなメディアの質的低下と政治家の劣化は正比例している。
新聞も人口動態の変化に伴う経営改革と紙面改革が求められる。
時間はあまり残されていない。