怒りの表現を「組織の持続可能性」を踏まえたものにしてほしい、というのは組織崩壊にコストをかけたくないマネジメント側に大きなメリットがあるし、もしも怒りのマネジメントができないことが組織が生み出す利益に影響してくるようであればステークホルダーからは「なんとかして」といわれる。
また、「何事もなく淡々と」という状態を求める人たちもいる。怒られたことの心的影響は被害だという声のほうが怒らせるようなことをしでかしたことより重く受け止められる。
いわゆる「怒髪天を突く」ような怒りの表現が社会に受け入れられなくなっている。
だから、雷親父、みたいな人はめっきり少なくなった。
こんなことをしたらあの親父に叱られる、とびくびくしなくてもいい社会にはびこる「わかんなきゃいいんじゃね?」的な雰囲気がある。
相手が黙っていれば大丈夫、みたいなズルい考え方もはびこっている。
雷親父が「嘘はゆるさん」「人としていかんことはいかん」「どうしてそんなことがわからんのか」と怒りを爆発させ、その怒りに触れて「あ、こういうことはやってはいかんのだな」と人は悟る。
そういう機会が今はほぼない。
これは社会にとっていいことなのか。
が、「怒る以外の方法をたくさん持つ」のは必要だなと思う。
怒髪天を突くような怒りをしょっちゅう爆発させていると本人は「人直し、世直しをしたったわい」くらい満足感、達成感を味わうが、いわれた相手は反省せず、不満や恨みつらみを募らせる。
鬱屈した怒りは強いエネルギーとなり、復讐達成願望を生み出す。
その伏線が怒った人をけつまずかせ、失脚にまで追い込む。そうした現象も世の中には散見される。
だから怒っては損なのだ。人のためより自分のため、といえば身もふたもないが
昔から金持ちケンカせずというように世間が狭くなると飯が食えなくなる。
ところで、怒るなといわれても腹の立つことは世の中に多い。
「何度言ってもわからず失敗をくり返す予見性が身につかないアホ」から受ける被害はどうする?
天気予報から推理して、洗濯をし、ポケットも日が当たるように配慮して干し、その日中に取り込めるような家事能力がある人と天気になって「洗濯でもしようか」と思いたち、干すころには日が陰ってくるような繰り返しの人がいるとして、後者が身近にいたら、イライラもするだろう。
段取りをみんなで決めたのに、一人それを破れば、いろいろ支障をきたし、調整に手間がかかる。みんなからは「あのバカのせいで」と舌打ちされる。
今まさに、麺をすすろうという瞬間の間延びした声のセールス電話。いったいどうしてくれる。
いちいち携帯に電話してくるようなことか、といいたくなるような些末でひんぱんな連絡。仕事やってる感につき合せられている。電話以外に方法は思いつかないのか。
出がけに段取り狂わせな話で引き留められ遅刻。
問題解決にならないのにやたら「大変だ」と大騒ぎする手合い。
「その場だけの話」が全員につたわっているような口の軽い人。
人に連絡して指示する立場なのに、質問への備えが全くできていず、質問されるたびにうろたえる。
人の話を最後まで聞かず、自己主張が勝る相手。
人はそういう事態に遭遇した時、どう対処したらいいのだろう。
アングリーマネジメントのノウハウでは怒りたくなったら6秒待てというアドバイスがある。が、6秒をどう過ごす?
「この馬鹿野郎めが、という相手への怒りは実は相手に期待した自分の人を見る目のなさに対する怒りなんだなあ」と考えてみるのも一つ。
「こんな馬鹿野郎の密度の少ない場を求めるにはどうしたらいいだろう」と考えるのも一つ。
「ここで怒れば、飯がまずくなる」と昼ごはんや夕ご飯に思いをはせたり、
「相手に自ら進んで是正してもらうにはどう接すればいいだろう?」とか、
「相手はこちらの状態を理解しているのか」とか考えてみるのも一つ。
怒ってしまえば、世間は狭くなる。自分はすっきりしても相手は覚えている。それに思いをはせるのも一つ。
馬鹿につける薬はない、と深呼吸してみるのも一つ。
私はといえば、怒りの経年劣化か、しんどさが先に立ち、たいていのことには「あ、そう」と受け流すことができるようになった。
ここで怒ったところで事態は解決しないとも思うようになった。要は問題解決に何が有効かということだ。しんどい故、そちらに頭をひねる方が楽になった。
アングリーマネジメント。怒る以外の問題解決法に思いをはせざるを得なくなる誰しもが通る道。
しかし、雷親父は偉かった。しんどさを超えて若者に悟らせたいと思いあまっての行動だったんだね。
というわけで、お知らせです。月刊木村佳子を完成させました。
ご覧いただけると嬉しいです。