病院で死にたくない~終末医療に疑問がいっぱい

実母が大動脈解離。老人ホームから緊急搬送された。こうなるとたいていは二日以内に亡くなると聞く。
そこで親族は病院に。
ところが思うようには会わせてはもらえない。
遠方、やっと時間を作ってようよう病院にたどり着いたとしても、「先生に聞かないとわからない」とナースステーションで言われてしまう。
「予約のある方しか会わせられない」。
その予約を取ろうとすると受付の電話が込み合っていて長々待たせられる。
やっと病棟ナースステーションに問い合わせてもらうと「先生に聞かないとわからない」
その先生はというと今日はいない。この繰り返し。らちが明かない。

重篤な日には5秒ほど顔を見ることができたが、別の日はナースステーションで「先生に聞かないと」と止められ、その先生はまたもや留守だった。

その日、「個室に患者さんを移動させてなら会わせられる」その個室は一日2万円。いったんその個室に移るともう元のベットには戻れないのだそうだ。
退院するまでその一日2万円の部屋にいなければならないという。
面会日だけその個室に移すことはできないのだそうだ。
実母は齢95歳。
もういつ何時、万一のことがあるかもしれない。
そこにいるのだから、手を振るくらいの面会も駄目なのか。

病院の言い分もわかる部分はある。
コロナがまた増えているので、部屋に面会人が入ってその病室で万一コロナが発生し、重篤な人や亡くなる人が出た場合、収拾がつかない大影響が出る。
だから、部屋に人を入れることはできない。
ごもっともだ。

しかし、やはり病院には不備があると思う。
面会室という個室に患者を一時的に誘導し、透明シートかなにかで防御したうえでせめて手を振るとか、顔を合わせるくらいのスペースを作ればいいのに。
地獄の沙汰も金次第とばかりにその病院では3つしかない一日2万円の個室に入りぱなしでいいなら会わせられるとは。

病人にとって家族が励ましに来たということがどれほどエネルギーになるかを考えてないんだ。
その日は前々から食べたがっていた昔ながらのブドウを探し出して持参したが、食べるものはだめという。

不用意にそういうものを食べて万一のことがあればと病院は思うのだろうが、死期の近い親族にこの世の名残にブドウをわずかでも口に含ませてやりたいという思いは病院側が立ちはだかってかなえさせない。

姑の時もそうだったけれどコロナが流行ってからなのか、その前からなのか、病院で亡くなるということは「不自由」を余儀なくされる。こんなことってありなのか。病院はヒエラルキーがはっきりしている組織で指揮系統がはっきりしていて、入院している患者にもその家族にも組織自体が強権を持つ。
家族の命を人質に取られているようなもので、親族は病院とかかわる以上、その強権に従わざるを得ない。人道上のロジックが容易には通じない。
家族や自分の終末を病院で迎えるかどうか、本当に今一度よく考えなければならないなと思う。

自宅で家族に看取られながら、亡くなる。その死に方のほうがよほど本人にとっては充実した終末になるのではないか。
あれダメ、これダメ。そしてヒエラルキーのトップである医師に聞かないと何も決められない現場。
家族を盾に取られて、カネ次第で事情が変わってくるのは一体、病院とは何なんだろう、と立ち止まって考えなければならない。
実母の場合、95歳という年齢なら死亡退院の可能性が高いのに、そのわずかな時間に家族と会わせる発想が病院にないのはいかがなものなのだろう。

そして、家族はただでさえ家族が病気で打ちのめされている場合が多いのに、「病院」という「不自由」がさらに追い打ちをかける。嫌な思い、悲しい思い、悩ましさには病院という組織の在り方やあれダメこれダメの対応からくるものが実は多いのではないか。

ちなみに母は息を吹き返し、一度は重篤な状態であったが持ち直した。
あと一か月か二か月入院したら(30日と60日では随分と開きがあるが)、老人ホームに帰れるかも知れないという。
ちなみに60日入院した場合は120万円。
第一連絡人になっている長男の采配があるので、嫁に行った私が勝手には決められないが、なんとも複雑な思い。
終末医療の在り方を病院経営者はよく考えてほしいものだ。

私は病院で最後を迎えたくないなあと思う。
最後位、好きなものを食べて好きなようにして死にたい。

いや、ほんとに病院で死にたくはないとつくずく思った次第。
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by yoshi-aki2006 | 2023-06-11 00:46 | 事象観察 | Comments(0)  

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