「はったり」の上げ底と「野心」のエネルギーを持つ人持たない人の差

久しぶりの更新だ。
今日は誘われてスペインバルでのフラメンコ企画を観に行き、感じたことがトピック。

スペインバルでの舞踊企画はお客さんを持っている何名かの踊り手で構成される。バルはたいていの場合、70~100名くらい入れるスペースを持つ。ケーススタディの一例だが客はダンサーからショーチケットを買い、スペインパルでは飲食費を払う。ダンサーは舞台に参加する費用を企画者に払う。企画者はギター、カンテなどのアルティスタの費用、バルのレンタル料を引き、残りを自身のフィーとする。ダンサーはチケットを売った分、参加費を軽減でき、ノルマ以上にチケットを売った場合は多少のインカムを得る。
見に来るお客さんを確保できるダンサーを集めれば、企画者もそれなりに収益が得られる。

100名が4000円のチケット代金を払ったとすると40万円が踊り手によって集められる。
バルでは100名にドリンクや食事を課していることが多いから一人単価4000円として40万円。
合計、一晩のショーでバルの規模にもよるが80万円前後の売り上げとなる。
バル側はたくさんショー企画があればあるほど安定的収益が得られる。
なのでバル側も営業企画としてセールスするし、アルティスタやダンサーも自分の収入を増やすために主催者となって企画するわけだ。
客が呼べない出演者は最低限の参加費用を主催者に支払うことになるので、教室を運営して観客数を確保できる先生業の人が舞台に立つ機会が多い。来場者を毎回コンスタントに確保できるかできないかがダンサーとして舞台に立ち続けるポイントになる。
ちなみに教室を自前で持ち、企画催しを定期開催すれば多角的な収益源になる。

ダンサー側は舞台に立つことによって自身の経験も積め、チラシなどで名前が知られ、生徒を獲得することにもつながるから広告効果も見込める。

ただ、よい舞台を務めて「この人が出ているなら観に行こう」と名前で観客を呼べるダンサーになるにはこうした企画ものだけでなく、別の山の登り方も必要になる。

例えば海外で修業し、その際に有名なダンサーに学んだり、現地でソロで舞台に立つなど実績を積み、それをプロフィールに盛るなどして経歴に箔をつける。
ダンサーを撮影させたらピカ一と評判のセンスのいい写真家に撮ってもらい、それをホームページやチラシに使う映像によるイメージ戦略も必要だ。

海外有名ダンサーと日本でもコラボ公演する取り組みも有効である。
「××子が日本に呼んでくれる」「おれたちに仕事を作ってくれる」という実績を作っておけば話が実現しやすい。

こうしたことを継続的に行うにはビジネス感覚はマストだ。
ただ踊りがうまい踊りバカではだめなのである。

支援者がいれば踊りバカでも話は違ってくる。敏腕マネージャーが仕切ってくれるとか、才能を認めてタニマチが付くとか。
家族が団結してサポートしてくれるとか。

それには「この人のために何とかしてやろう」と思ってくれる人と出会える運も持ち合わせなければならない。

ただ、踊りが好きだから踊っているとか、自分の好きなように感情の赴くままにふるまって満足しているにとどまれば自己満足で終わる。大多数の人はそのカテゴリーに属し「素人」か「素人に毛が生えた程度」のダンサーで終わる。次第に年齢的にむつかしくなったり、金銭的に続かなくなっておしまい。お金と時間を費やして自分の好きなことをやっただけ。

株式投資や事業でも同じことがいえる。「自分が好きなようにやって楽しんで終わり」では消費に過ぎない。
株式投資の場合は山を引き寄せる成果をあげないとむなしいし、自分も家族も不幸になる。
事業の場合は商売が成り立って従業員の継続的雇用や地域社会、取引先、消費者に貢献することで社会的存在として命を与えられ、それが喜びとなって経営者に返ってくる。
一方通行だけではむなしくはかないのだ。

企画モノだけで舞台人として終了するかリサイタルが開けるくらいの存在になるかは踊りが決め手になるのではない。
踊りや外見の問題ではなく、ある種のド厚かましさや自分の能力以上に野心を持っていなければならないのだ。

さらにその時代に頑張っていた人というだけで終わらず、長く歴史に名前をとどめるには、多くのプロからリスペクトされること。
教室運営などビジネス面で成功している場合、ともすれば「社長が踊っている」踊りになってプロからのリスペクトは得にくい。むつかしいものなのだ。
ビジネス面で仕組みができた後はサポートしてくれる人に任せたほうがダンサーとして大きくなれる。
子供か夫か兄弟か。
あるいは苦楽を共にしてきた仲間か、知人か友人か。
しかし、ここにもむつかしさがある。芸能界でもよくあることだが、有名になればなるほど、関係者が金品を持ち逃げしたり、経理をごまかしていたりする。
子供とのトラブルならまだ、あきらめもつくが、上り詰めようとする人は子をなしていなかったりする。

さて、先般拝見した企画モノの舞台。
出演者の一人と縁あって喜んで観に行ったのだが、ご本人は「納得がいかない舞台で申し訳ない」という。そんなことはみじんも感じなかったが、踊り手として自分でいろいろと感じる部分があるのだろう。
「もっとこうしたかった」「もっと踊れた」と査定してしまうようだ。
その向上心が彼女をさらにさらにと導いていく。

一緒に彼女と踊ったという人も見に来ていて「踊り始めるとき、彼女のスイッチがオンになる瞬間がわかるのよ。そして、やはりすごいなとその時、改めて偉大さを感じた」といっていた。

そんな彼女は私には雲上の人。何か申し上げるような立場では全くないが、こんなに緻密に誠実に踊れる人なのにもっともっと轟く知名度があってしかるべしなのに何かがそれを阻害しているとするならば、「はったり」や「我こそは」という野心だろうと思う。

「ド厚かましい人」と言い換えることができる人種と彼女は遠い。
彼女を評して「天女様のような人」という人もいる。
時折、「おや、あなたはもっと攻めて踊らないのね」という厳しいキリリとした表情を見せることもあり、けして優しいだけのフニャ子でないことは確かだが、基本的には慈悲観音のような人柄だ。

「誰よりも私が一番」という自負心が野心となってド厚かましく「我こそは」と主張しない良さと物足りなさのどちらを取るか?  それを考える間にどうか、お年を召しませんように。ファンとしてはそれを願うばかりだ。

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by yoshi-aki2006 | 2024-03-11 00:53 | ビジネス | Comments(0)

 

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