生命は固体に宿る

認知症の人は自分の名前や年齢など固体特有のデータを心ならずも自分の頭の中から消失してしまうケースがある。そういう意味では体は現世、頭は涅槃といえるかもしれない。

認知症ならずとも、ふと、「私は誰?」「一体、今、いくつ?」というような思いにとらわれることがある。

死した場合。

名前も年齢も、固体にまつわる全てから解き放たれるのだろうと想像する。
年も容姿も関係なくなるなんて、なんと自由な世界だろう!
そう考えると、死の世界も子供の頃、想像したような不自由な世界ではないのだなという気がする。こう思えるのが、年の功なのだろう。

生命は固体に宿る。

だから、どんな生でも一生懸命生きなくてはならない。二度とその固体には帰ってはこないのだから。「生」を吹き込まれた自分のこの世での唯一の乗り物。それが固体だ。
生命時間フリーにするなら子孫を残すか、ビジネスか芸術にしてつなぐべし、と思う。

さて、現世での個々の乗り物。それが「ワタシ」という固体。
せいぜい、磨いて、うっとおしい梅雨に負けないぴかっと光ったヒトでいようと。
ちなみに今日は水シャワーを4回も浴びたぞ。
よっ、水も滴るよいオンナ!(自分でいうのだ~)。

by yoshi-aki2006 | 2007-07-11 14:45 | 人間考察 | Comments(0)  

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