国政は人の幸せを静かに喜べる人に

選挙が近い。
政策論議も盛んだ。
が、政策を180度変え、成果をあげるのは容易なことではない。
方向性を確認し、少しでも改善できるように努力していただくのが一番よいと思う。

そして、何より!
人が不幸な状態にある姿を見て悲しんだり、いきどおったりするのではなく、
ましてや、人の不幸を喜ぶのではなく、
人が幸せになっていく、あるいは幸せそうにしている姿を見て、
心静かに「ああ、あの人が幸せそうにしていてよかったなあ」と喜べる、そんな人に国政をになっていただきたいと思う。

人が幸せそうにしている姿に不慣れな人がいる。
人が幸せそうにしていると腹が立ったり、妬ましく思う人もいる。

それはその人の心が貧しいというよりも、幸せな人の姿を見慣れていないことが大きいと私は思う。身の回りに幸せそうにしている人の数が少ない境遇にいる時間が長かった人は人の幸福な姿は「異常」な状態に映るのだと私は思う。つまりは、そう感じる人は不幸な状態がスタンダードなので、人の幸福が許せないのである。

人の幸せを遠くから静かに、「ああ、よかったなあ」と自分の喜びとして感じ取れる人。そういう人に私もなりたいし、そういう人にこそ政治をつかさどっていただきたいと願わしい。
どの候補者がよいだろうか? エキセントリックなきわどい脅かしの話ではなく、人の幸せを優しく見守れる人を見分けたいものだ。

ところで幸せとは何ぞや? 私がイメージする幸せとは消費生活の中でマンションを買った、資格を取った、マスコミに大きく取り上げられている、昇進した、会社を買ったと勝ち誇って見せる種類の幸せとは別物だ。ご飯をおいしく食べられる、家族と安心してくつろいだ時間を過ごすことができる、そんな平穏な日常生活が送れること。幸せとは人が人として安心して生きていける普通の日々のことではないかと思う。

そういえば「幸」という字と「辛」という字は成り立ちようは似ている。何かが足りないと「辛い」状態になる。何が足りないと辛いのか? 自らもそういうことをふと省みることだ。

by yoshi-aki2006 | 2007-07-24 10:26 | 提案 | Comments(0)  

<< 変調の兆しあり 7月25日は大手町オアゾのノテ... >>