立場を変えて新たな視野を広げる

「とりかえばや」
相手と自分の立場を取り換えて様々な視点を発見してみる。

私が岸田首相の母であれば
「息子は世論が厳しい中、よくやっている」と思うだろう。
私が菅義偉氏の娘ならば
「お父さんは安倍首相への弔辞をお父さんらしい言葉と話し方でよく読んでくれた」と想うだろう。

立場が違えば、その人への思いは違ってくる。

国葬に反対するのは思想信条の違いもあるからそれにはとやかくは言えない。反対者は「税金の無駄使い」をあげたり、「憲法違反」を指摘したりしている。
確かに両方とも一理はある。
しかし、美学として、日本人の品格として、せめて多くの人が黙とうしている時ぐらい、静かにできないものか? 

花屋さんの問題。
「今日は献花で花が売れるだろう」とここまではわかる。
しかし、花品切れについて「三割マシの発注をしていたが売り切れた」と関係者がわびる姿に商売人として「普段の10倍の仕入れをしても足りないくらいの見通しは持てなかったのかな」と思う。

もちろん生産農家さん、卸しの関係でそんなに大量の仕入れはむつかしかったかもしれない。
しかし、いかになんでも三割り増しなんて少なすぎ。
こういう時は「売れ残ったら売れ残った時のこと」と腹をくくって、10割増しに仕入れる勝算に賭けるべきだったと思う。

今、五輪汚職で逮捕されている78歳の元理事。
口の堅さで折り紙付きで、だからこそ、その筋から「あいつは口を割らない」と信頼されてるという。
ゆえに三回も逮捕されてしまうことになるのだが、奥さんや子供たちはどうだろう。
豪邸は賄賂をかき集めたたまもの、といわんばかりの報道で日常生活にも差し障りが生じているのではないか。
なじみの美容院やお店には行きにくくなっているのではないか。

人は金持ちの転落話が大好きだから、マウントで勝利感を味わうために思い切り貶めに熱心になるはずだ。

元理事は拘置所で頑張って政治家擁護を続け、不起訴狙いをしていても、子供、孫たちの日常生活は辛い状況にさらされていることだろう。

私が元理事の家族ならやはりつらいと思う。
では、身近にそういう人の家族がいたらどうだろう?

向こうも辛いだろうからなるべく、顔を合わさないようにするかもしれない。
でも、あった時は何事もなかったようにふるまう。

ところで、ここまで生きていても、まだ、よく理解できないことも多い。

仕事で成功するために効率の良さを求めるなら「柳の下のドジョウを狙う方法」や「成功した人のまねを徹底する方法」がある。
実際、この二つを実践してそこそこ回している人はいる。

が、そういう人を尊敬できるか、好きかというとそれはない。
尊敬できないし、好きではない。
効率優先、人なんかどうでもいい、自分だけが成功すれば満足という人は人の講演先に忍び込み、レジュメを手に入れ、ほかで自分が「その人」になりきって話すのも平気だし、おとなしそうな著者の本を全コピーして本を出してしまうド厚かましいことも平気だ。

余談だががっかりする例もある。先輩だと思って敬っていたし、その人の実力には一目も二目も置いていた。失礼のないようにもふるまってきたつもりだった。別の人の本丸写し出版の苦情を耳にした時も「そんなことってあるのかな」とも思っていたけれど、ある時、目にした「指数見通し」に私が出した銭単位の数字まで丸写していた時には「うわー!!」とのけぞった。
ある意味、目標として憧れていた人に自分が影響力を持つなんて、ホントに寂しいことだ。

自分があこがれている人を徹底的にコピーして、自分がまだ手にしていないものを手に入れるためにはどんなことでもする輩は男にも女にもいる。
「そういう人」を知る人は「えげつない人だとは思うけど、うらやましがっている相手と同じものを手に入れてしまう点ですごい」という評価になる。
略奪愛といわれるようなこともこの構図から派生した行動なんだろうな。
「人の持っているいいものは自分も欲しい」
「その人のピカピカを奪って自分がピカピカしたい」

しかし、マネされた方の人が圧倒的に魅力的だし、好きになれる。理由はオリジナル版の人はメンターがいたとしてもそこからオリジナルな発想で新しいモノを発見し、世に提供する公益性を持つのに対し、マネ版は公益性より自身の効率性を優先している。そんな人を好きになりようがない。

が、その人の家族として観た場合、どうだろう。
「××ちゃん、よく頑張っているわね」とか「あなた偉いわ」というかもしれない。

しかし、コマーシャルのフレーズではないが、そこに愛はあるのか? という点で「?」である。

マウント好きな人。
マウントを仕掛けてくる人は「私はあなたより勝っている」ということを何らかの見下しシグナルや貶め行為で示す。
で「勝った!」ということを味わうことで自己肯定感を持つ。

こういう人の自己肯定の餌になるべきではない。
自分がマウント好きな人の家族ならどうなんだろうか。
「よしよし」とか言ってあげるんだろうか。スルーするのだろうか?

いずれにしてもそこに愛はないんだろうな。そう思う根拠は?
あったら、マウントなんかに興味がなくなるはずだから。








# by yoshi-aki2006 | 2022-09-30 10:39 | Comments(0)  

イカ・ゲームにハマった!

Netflixの「ザ・クラウン」にハマると聞いたのでエリザベス女王の国葬もあったことだしと、鑑賞してみた。
ファッションが興味深い。映像がキレイ。歴史の勉強にもなる。が、せっかちな私は4倍速くらいで観たくなってしまう。
 
 家族がNetflixでしか見られない「イカ・ゲーム」(ファン・ドンヒョク監督)を観ようというので試したら、これがハマってハマってついに今の時点で観られる9話まで一気に鑑賞。久しぶりに釘付けになった。

ネタばれになるので詳しくは書かないが、ものすごく深いテーマを扱っている。自分自身の哲学を深いところから問われる点で単なる娯楽映画ではない。

投資をする人にもお勧めだ。この作品はきっと参考になる。
もちろん、株の買い方やドル円がどうしたこうしたというノウハウは出てこない。しかし、ゲーム理論的なヒントがたくさんある。
そこに人のサガがでる。いわゆる「あるある」に考えさせられる。「こういう人っているよなあ」とか「自分だったらどうするか」と。

おそらく北野武さんもきっとこの映画を観て、大いに創作意欲をかきたてられているはずだ。
いや、実にすごい作品だった。

私はKポップにハマらなかったし、韓国ドラマにもハマらなかった。だから、韓国の芸能人には詳しくない。
登場人物の演技が素晴らしいのできっと実力俳優さんらが登場しているのだと思うが、その迫真の演技もさることながら、韓国の役者さんの顔を見ていて「ああ、人に受ける顔ってやっぱりあるんだなあ」と今更ながらに思った。

主人公のソン・ギフン役の イ・ジョンジェさんは日本の俳優の小林薫さん、近藤正臣さん、大泉洋さん、そしてどこかちょっと福山雅治さんの面影がある。
そして チョ・サンウ役のパク・ヘスさんはちょっと西島 秀俊さんと被る。
ファン・ジュノ役のウィ・ハジュンさんは坂口健太郎さんと被る。

さらにチャン・ドクス役のホ・ソンテさんはホリエモンさん、林真理子さんと被る。
ハン・ミニョ役のキム・ジュリョンさんは大塚寧々さん、斉藤由貴さん、小池栄子さんと被る。
作品に登場する韓国人の顔はどの人のもものすごく懐かしい。
彼ら彼女らの顔はとても懐かしい誰かに似ている気がする。

作品に登場する韓国の現在の姿にもつまされるものがある。われわれ日本人が過ごしてきた戦後の日々と被るからだろう。

底流に流れる旋律はこの作品の主人公のようにものすごく哀しい。

ゲームに参加する人々の姿は経済社会、学歴社会、階級社会という具合にしつらえられた闘牛場のような顕在社会の中で、牛であり馬であり羊であり犬であり蟻だ。こんなはずではなかったのに。気が付けばそこにいたのだ。気か付く場所が今ここで。
だから主人公が「俺たちは人間なんだ!」と叫ぶシーンに観ている側は深く共鳴する。
特別客を国際金融資本と監督が示唆している点にも。

ところで、日本と韓国の間には徴用工問題などいろいろと残念な報道があり、なんとなく日本人と韓国人の間には微妙なものがあるのは事実だ。
しかし、この作品を見ていて、なぜそうした政治的経済的な分断工作にも似た事柄がこれでもかこれでもかと私たちの精神に、潜在意識に「憎悪」「嫌悪」を塗り込むがごとく報道され続けるのかもわかった気がした。

日本人と韓国人は実はものすごく懐かしい関係なのだ。
そして、いったん垣根が取れると私たちはきっとお互いに強く希求しあうはずだ。
それを恐れる存在がこの世にはいる。だから、盛んに絶え間なく「近ずくな、奴らは敵なんだ」「憎むべき相手なんだ」と日韓の分断を図ろうとするのだろうな、と感じた。

この作品を観て、ふと韓国に旅行した時、地下鉄の中で隣席の若者が親切に乗り換え路線について教えてくれた時のことを思い出した。
地図を片手に乗換駅を間違えないように心もとなさそうにしている私に自発的に「次の駅ですよ」と身振り手振りで示してくれた。
旅で接した韓国の人はみな親切だった。
けして報道で感じる「敵」ではなかった。

私たち日本人と同じように戦後経済の中で必死に生きている人々なのだ。
そういうことを確認できた点でも、実に深い作品だった。
ちなみに空前のヒットとなったこの作品はシリーズ2の制作が始まっているそうだ。
怖いもの見たさ・・・・、いや、自分の過ぎし来し方を検証してみる参考書として、ぜひとも続きを見たいものだと思った。

さて、本日の動画です。








# by yoshi-aki2006 | 2022-09-27 06:40 | アンテナ | Comments(0)  

身体能力と向き合う

ついこないだまで、できていたことが、できなくなっている。
よく、そんな声を聞く。
「えっ、まさか。そんなに急に体って変わるものなのか?」と半信半疑だったけれど、今まさに、「なるほど・・・」と実感する。
ついこの間まで、難なくできたことができなくなりつつある。
ちょっと無理をすると痛くなったりする。

引っ越しのたびに昭和の重い箪笥を一人で動かし、冷蔵庫だって引っ張ったこの私が、と愕然とする。

趣味のフラメンコで一緒に教室に通っていた人にも「えー、やめちゃったの?」という方たちがいて、それぞれの理由が体の不調だった。
あんなに全能感を感じさせる素晴らしい踊りだったのに。
足が痛くて踊れなくなった、とか腰が痛くなったとか。
残念だなあ、また、復帰してほしいなあ、と思うけれど、私もなんとなく足裏が前と違って結構、痛いなあとか季節の変わり目に関節が痛むなあとか身体の変化を感じる。

こんな風にして、だんだんできないことが増えていくのだろう。
時間の中で紡いでいる命ならば。

しかし、それもまた楽しめばいい。

ほー、これもできなくなりつつあるのか、とか、
へー、ついこないだまでできていたのに、とか
体の変化を眺めていくというのも、紅葉をめでるように時間の経過としてしみじみ味わえば、残念だとか悔しいだとか無力感だとかを一掃できる。

まあ、いいじゃないか。いつまでもできてしまえなくても。
高齢化が進行していく日本では、「ついこないだまでできた人」から「あれもこれもできなくなりつつある人」の比率は高まっていく。
そんな中に自分も混ざっていく。

ところで、そうはいっても「何ぐずぐずしてるんだ!」とか「何もたもたしているんだ!」と体全体でいらだっている若者を見ることがある。
改札でほかにたくさん改札ゲートがあるのに、わざわざ高齢者がゆっくりパスモ、スイカを検知器に充てているのをいらだって、その人がゲートを通過する前に自分のカードをすごい勢いで当てて、早くいけと言わんばかりに急き立てる。
若い男だったり、女だったり。
「あれはいかんよなあ」
とみていて思う。

なんて余裕のない奴らだろうかと。

が、かつて、20歳代の私もあんなだったなあ、と思い出す。
のろのろしている人にイライラした。
なんであんなにイライラしていたんだろう。
「できる」ことが当たり前で、そのことの万能感が心地よく、人にその自分のリズムを進行力を邪魔されるのが嫌だった、といったところかと思う。

そういうカチカチした状態もやがては手放さざるを得なくなる。
そして、それを嘆いたりしているうちに嘆いていてももったいない、と思うようになる。

楽しめ!
笑え!
眺めよ!

そして、さらに未来を思えばいい。できなくなりつつあることの次にはそのボロを脱ぎ捨て、別の場面転換を迎えることを。
どんな未知の世界があるのだろうか?
その世界はあるのか、ないのか?
それは「お楽しみ」として取っておけばいい。
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さて、東京五輪汚職で大物政治家の逮捕があるかどうか、SNS上ではいろんな名前が飛び交っているが、ひょっとしたらそろそろ秋の臨時国会の開催も迫っていることだし、逃げ切りとなる可能性もありそうだ。

私はこの事件の本質について「実はこうではないか」という仮説を立てて動画を作ってみた。



投資関係の直近の動画は以下の通り
https://youtu.be/vfrkKot36GY

【講演・出演情報】
9月26日 CBCラジオ 北野誠のズバリに出演します。ラジコで聞けます。
10月24日には大阪に講演に伺います(朝日ホール 主催/日本証券新聞社)
11月25日には名古屋証券取引所主催のイベントで登壇します。
11月には株主手帳でオンラインサロン形式のセミナーがあります。





# by yoshi-aki2006 | 2022-09-23 06:46 | ライフスタイル | Comments(0)  

今、新聞を取っている世帯ってどれくらい?

94歳になる母はいまだに新聞を読むのが何よりの日課。
しかも、朝日新聞一筋。

私は仕事柄、一時期あらゆる新聞を購読していた。
結果、家の中が古紙回収の倉庫状態になり、積み上げるうちに猫の爪とぎにもなって、ついには購読紙を減らし、近年ではデジタルに切り替えた。
配達される新聞には「世界の情報が新聞にまとまっている」「いつでも好きな時にぱっと読める」という便利さがある一方、字の書かれた紙をゴミとして捨てるに忍びなく、溜めてしまう悩ましさがある。

ニュースは毎日生まれる。だから、今日の新聞は明日は不要、という考え方もあるかもしれない。
でも「今日のこの報道から何かが生まれていく」「重要な意味を持つことが今は見えていないだけかもしれない」と思うと、読んだ新聞でもしばらくは手元に置きたい。

ちなみに新聞捨てられない症候群は何も私だけでなく、知人の奥さんもそうだと聞いて、「あ、私だけじゃないんだ」と納得したものだ。
そのお宅では「捨ててよ、僕のおうちワークスペースが窮屈だよ」と頼む夫と「いやよ、これは私の宝物なの」と拒否する妻で会話の中身が次第に険悪になってると聞いた。
ちょっとくすっと笑ってしまったエピソードだった。うちでも似たり寄ったりのやり取りがあったからだ。
結局、そんなこんなの果てにうちではデジタルに移行した。そして、もう、前には戻れないと感じる。

新聞には考えさせられる光景を見ることがある。
近所に古紙回収の大きな施設があり、時々、その前を通るのだが、まっさらな新聞の山が大きなカートに積み上げられている。おそらく専売所が仕入れている実際の需要以上の新聞の廃棄が行われているのだと思う。廃棄されたまっさらな新聞を前に、私以外にもう少し年齢の高い婦人も長い時間、立ち尽くしていた。
きっと再生紙としてトイレットペーパーや段ボールの素材になるのだろうとは思うが、なんともいえない気持ちを覚えた。

まず、紙や印刷代が無駄になった痛み。紙や印刷に携わった働く人の仕事がゴミになった悲しみ。次に記事を取材した人、原稿を書き、一生懸命新聞という商品に仕上げてきた人たちの労力がゴミとして処分される無残。そして、新聞というかつては我々の知らないところで起こっていることを伝えてくれていた輝かしい存在がこうして、人に読まれることなくゴミになること。

知り合いに何人かの新聞記者がいたけれど、一人一人の「それまで」と「その後」を想うと、時代はそうして流れていくものながらなんとも寂しい気持ちを覚える。
それはものつくり最盛期の工場の衰退時にも
今の日本の世界的なポジションの後退にも
とめどない円の下落にも
同じように感じる気持ちと似ている。

さて、今、新聞を取っている世帯数はどれくらいか。

日本新聞協会の数字を当たってみよう
新聞の発行部数と世帯数の推移|調査データ|日本新聞協会 (pressnet.or.jp)
ほかのサイトでの日本の世帯数とも照らして
https://chimei.jitenon.jp/jinko/
日本の 総世帯数57,854,887戸(令和3年1月1日時点)とすると
日本新聞協会の数字から推定するに朝夕セットを取っている世帯は8~9世帯に一軒と考えられる。
朝夕刊セット数が多少、化粧している可能性を考えると
実情は10世帯に一軒くらいかもしれない。

朝日新聞の場合
2022年3月期の朝刊の発行部数は455万部とある。
出典
朝日の2011年発行部数は800万部だったというから約10年で半分になったわけだ。
さらにコロナでとどめを刺された。部数激減だけでなく広告出稿の減少も痛手だったろうな。

この三年、非常に厳しかったと思う。
新聞購読をやめる口実に事欠かなかった。コロナまん延で出社しない社員のための新聞の購読をやめたり、ホテル、店舗などで定期購読していた部数も減少した。

さて、新聞購読をむつかしくしている理由はコロナ以外にもいくつかある。
購読者の高齢化にともない、細かな字を読む意欲の減退。
視力の衰えを感じながら、細かな字を追う毎日はつらい。生活の質の低下感と直結する。
では、字が大きくなったらいいのかというと、それだけでは読もうという意欲につながらないと思う。

私の場合、新聞の購読を再開するとしたら、まずは簡潔にいろんなことがわかりたい。
国内外の時事、経済。生活、地域のこと。これが事実ベースで簡潔にまとまっていて、薄く、持ち運びや手元に置くのにちょうどいい大きさであれば購読意欲は湧く。ファイリングに便利であってくれればうれしい。ネットでデータを集めるより、便利ならと思う、

ただし、情報量は絞ってもらいたい。情報量が多すぎると、脳疲労を覚える。

そんなに多くの情報は必要ないのだ。特にネットで集められる情報はいらない。例えば、料理のレシピなどはネットで十分だと思う。
加えて、一般的に賢いと世に認定されているらしい人、同様に偉いだとか物知りだとかの人々のそれぞれの意見を積極的に知りたいわけではない。

彼らは自分でツイッターなり、ブログなりで情報を発信し、興味を覚えた場合はその人の本を読めばいいわけで、新聞で各自の意見をそんなに紹介してもらいたいわけではない。
新聞では記者が事実ベースで何が起こっているか伝えてくれればいい。新聞はその役目をまず果たしてほしいと思う。

多角的な視点での事実が知りたいのであって、「ロシア・プーチン悪者」のようなプロパガンダはできるだけ排除してほしいと思う。「ゼレンスキーとバイデンがウクライナを救済する方法はいくらでもあった」と感じる私には「プーチンが悪い」と言わんばかりの報道には不信感を持つ。
また、最近では岸田氏が菅氏の部屋を訪ねて、15分で出てきた後に、森元首相の東京地検特捜部の三度にわたる任意事情聴取の事実上の報道解禁があったこと、菅氏が沖縄県知事選挙前に安倍元首相の銃撃現場に出向き、手を合わせていることなどを点と線で結ぶと、岸田首相の菅氏訪問は「国葬の説明」関連ではありえないことが手に取るようにわかるのに、「国葬関係の説明助言を求めたものと思われる」といった憶測報道があったりすると、しらけてしまう。

そして、パーク24の役員名にオリンピックの竹田 恆和氏が名前を連ねていることも民間人のほうが先に知っているようなことは新聞の情報の品質にもかかわることだと感じる。

抜かりなく、そういう報道はきちんと網羅されていなければクオリティペーパーとはいえない。

ところで、私が新聞を手にしたときにかならず目を通すのは読者の投稿欄だ。出張し、ホテルで、あるいは駅の売店などで購入する新聞の何が楽しいかというとこの読者欄である。
生活者のそれぞれの生の言葉が「今、生活者の日常に何が起こっているか」を端的に伝えている。

近隣や公共面での悩み、楽しいこと、うれしいこと、悲しいこと。読者欄からは人の営みが手に取るように伝わってくる。
コマーシャルやドラマは「夢=うそごと」であり、「人の暮らしはここにある」と我に返る手がかりになる。

そして、ほっとした気分にもなる。

ニュースで報じられるのは詐欺、事件事故、戦争などの人間不信につながるようなものばかり。

人間はそんなに悪いことばかりするクソではない。

そういう点で新聞は世の中、人の世を明るく照らしているのか?
照らしている、という存在意義が感じられればまた新聞購読を再開してもいいなと思う。

2025年には団塊世代が75歳以上になる。
そのころには90歳代の購読者の存在もますます減少していくだろう。
政府は特殊な仕組みで蜜を吸い続けた一部の民間人、半民間人、政治家たちの影響下、税金を投入してはそうした特別ひな壇にいる人の資産を増やし続ける一方、高齢者の年金を減らし、医療費負担を求め、しかも生活苦に直結するインフレ政策をとっている。

大枚の税金が国民生活をよくする方向に使われることなく、国債発行額だけが膨らみ、もはや円安に頼って景気を起こすしか道がなくなっている。
宗教法人に利用される政治家だらけになってしまったのは、きわどい政治家を見抜けなかった国民のリテラシーの課題といえる。
新聞が国民に購読されるには、政治を国民側に立って質していく姿勢があるかどうかだ。
質すからには「まっとう」な人の生活に新聞の軸足が根を生やしていなければならない。
しかしながら、その軸足が生活者のフィールドからいつしか、ずれてしまったのではないか。
それはあながち、金持ちの子息子女の入社が優先されがちなメディアの問題とは無縁ではないだろう。
金持ちの子息子女の入社が優先されがちなメディアの質的低下と政治家の劣化は正比例している。

新聞も人口動態の変化に伴う経営改革と紙面改革が求められる。
時間はあまり残されていない。







# by yoshi-aki2006 | 2022-09-12 00:03 | アンテナ | Comments(0)  

問題ある親が問題ある子を造る

事件モノのルポを読んだ。
内容は名古屋大学の女子大生が起こした事件を主軸に書かれたもので類似事件にも触れられている。

読了して、どの事件も似た家庭環境、親に育った子供が引き起こしたことに驚く。
バリバリ仕事して家庭を顧みない母親。子育てしない母親。
あるいは支配的な母親。マウント的な価値観しか持たない母親。

その母親はふがいない夫を子供の面前で罵倒する。

そして、こんな人間になってはいけないとも、言うんだろうな。

父親はふがいないとなじられながら、おずおずと子供の参観日などに出向いたり、子供の送り迎えなどもする。
夜に母親が仕事から帰ってくる。
いろいろ家事の不備を見つける。
母親はその不備を夫のせいだとなじる。何やってるのよ、アンタって人は家事すらもろくにできないのっ、などと。
すると夫は「母親らしいこともしないでなんだ」と反発する。
母親は「誰も好き好んで働いていない。あんたがふがいないからだ」と反論する。

子供そっちのけで夫婦が罵倒しあう。

子供は思春期に入ってだんだんおかしくなる。
父も不全。
母も不全。
自分を構成し、支柱となるべき父親像も母親像も確立できない。
これでは人としての足場が築けない。

メンターもいない。
守ってくれたおばあさんなどが亡くなり、やがては・・・・。

母親は見栄っ張りで「うちの娘は」「うちの息子は」と学歴を自慢する。家歴の披露にも熱心だ。つまり、こうした母親はものすごく欠損感、コンプレックスを持っている。だから娘、息子が自慢の種でなければならないわけだ。
その自分の路線に合わないことをしでかすと激怒したり、無視したり、虐待したりする。
母親も自分の足場が築けていない。だから、子供や見栄の張れるものを強引に足場に据えようとする。

人からよく見られたい。人からよく見られるために飾りとなるものが欲しい。夫はそれを与えてくれない。だから自分でつかみ取るしかない。
自己肯定感のために勝ち続けたい。
その上、母親って、何なんだよと思う。
走っていくなら一人で走りなさい。家族を作っておいて自分事最優先はないだろう。
それとも結婚し、子供を持つということも「人に勝つため」のイベントって位置付けなのか。

事件を起こした子供たちはこうした不全な親の被害者であることが多い。

こうした母親らは子供に愛情深く接しない。ごはんを作ってやることもない。
子供はあくまでも自分の見栄張り道具としての生き物扱い。
キレイにカットされた犬を連れ歩くように、自慢の息子、娘を対人的なアクセサリーにし、アクセサリーとして使えない子供はいらないわけだ。
何という母親。母の心に巣食う欠乏感。
この母親の心の陥没状態、その闇に落ちた子供が事件を起こしてしまうわけだ。


こんな母親であれば、こんな家庭であれば、そりゃ、おかしくもなるだろうなあ、と思う。

ただし、こうした不全な親や問題ある親に育ったからと言って全員が事件を起こすわけではない。
立派に生きていく人もいる。

どうして道が分かれてしまうんだろう?

そうした子供たちの周囲に温かい情のある大人がいるかどうかで違ってくるんだろうな。

例え、「子ども食堂」みたいな形であれ、人が人を思いやって作ったごはんを食べる機会が持てていれば。

ごはんを食べながらしみじみ、人が人を思いやるってありがたいことだなという体験があれば違ってくると思う。
本で取り上げられた名古屋の女子大生の場合、仕事にいそしむ母親にほったらかされていて、妹と連れ立って外食しに行く姿を近所の人たちが見ていたという。
また、洗濯も行き届かない薄汚れた服を着ていたとも。

「可愛がらないのにどうして子供を二人も生んでしまうんだろうな」
私にはこの点が不思議だ。

「自分は子供をかわいがることができない」と思うのなら、子供を持たない人生を選ぶことくらいしろよ、と腹が立ってくる。
母親の無自覚ぶり。
無責任ぶり。
まず、親に対して問題あるよなあ、と思う。

もし、できちゃった婚で子供を持ってしまったのなら、二人目はやめといたら?
名古屋女子大生事件の場合でいえば、なんで妹まで作っているの? と思う。

子供をかわいがらないのに子供を作って、虐待して死なしたりしているバカ親にも腹が立つけど、生んでおいて放置ってどういうこと?

そうした自身の不全に気がつかない空虚な親を持った子供が最大の被害者じゃないか。

気の毒な子供とはいえ、困るのは事件を起こす子供たちが何の関係もない人に被害を及ぼすことだ。

自分の人生をほかでもない親に軽んじられてきた結果、そうした子供は他者の人生をも軽んじてしまう。

一人一人に人生があり、それぞれが10人とも20人とも100人とも人間関係をつむぎあって、各々がその関係の中で目に見えない大切なものを育て合いながら生きているという時間空間に対する広がりの認識が持てない。つまり、社会性を持てない。

自分もそうした、今は届かない時間空間にいつかは仕事や余暇でつながっていこうとか、時や空間を他者とはぐくみ合おうとする漠然とした明るい肯定感を持てない。

だから、社会性の欠如の最たる「事件」を引き起こしてしまう。
究極的には「自己実現が最大の生きる目標で自分ごとが最優先」という世界観を持つ親が呼び寄せた帰結であり、子供のしたことは親の不全の延長線上にある、と私は思う。

そうした子供にしないためにはまず、親は子供に心を込めて食事を作り、ともにおいしいねとかこれはこういう味の方が合うね、とかたわいもない会話ができる時間を多く過ごすべきだと思う。

社会でバリバリ働いて他者をしのいで出世していく男は頼もしくはあるが、激務でストレスを抱える結果、こうした男たちは浮気かパワハラか、そうでもなければ早死にか、原因と結果の世界でそれなりの帰結を見る。
社会でバリバリ働いて、家庭では善き夫、善き父でというような絵にかいたような男はごくごく少ない。

そうした男はほかの女にもかっこよく映り、さらわれてしまうこともある。

するとシングルマザーで働かなくてはならないということにもなるわけだ。

だから甲斐性なしの夫を責めてはいけない。善き父であってくれればいいではないか。浮気をする甲斐性もないくらいでちょうどいいのだと考え直せぱよかったのにね。
子供の前で夫をなじると子供は自分の半分を否定されている気分になり、離人症や二重人格になる。
だから親は子供の前で配偶者を非難してはならない。
親になったら、自分事最優先ではいられない。それを自覚し、それを受け入れたうえで人生設計をしなおすべきである。

それにしても本当に怖いことばかりが書かれてあって、いろいろ考えさせられた。

本を読んでもう一つ、怖いなあと思うことがあった。
それは無味無臭な猛毒が容易に名古屋女子大生ら、こうした事件を起こした人たちに入手できたことである。

そして、こうした猛毒にやられると今のコロナ騒ぎの症状と酷似する。

いろんな意味で考えさせられる読み物だった。

一橋文哉さんの本一覧は以下のリンク。
経済モノもたくさん出されていて名古屋女子大生の本以外にも何冊か拝読しています。












# by yoshi-aki2006 | 2022-08-17 06:11 | シンキング | Comments(0)